自動販売機

前回の記事に続いて、最近、タバコが買いづらい。タバコの自動販売機が激減しているからだ。まあ、昨今の禁煙推進状況からすれば、”そんなこと、全然問題では無い。”という人が多いだろう。又、自動販売機などで買わずに店で買えば良いという人もいるだろう。ただ、私は、どうも、コンビニでタバコだけを買うのに抵抗感があり、できれば、自動販売機で買いたいと思ってしまう。
世界でこれほど多くの自動販売機がある国は珍しいそうだ。確かに、町の通りは自動販売機だらけだ。他の国であまり普及しない理由には、治安の問題があるらしい。つまり、自動販売機を設置してもあっという間に壊されて、中身を盗まれてしまうということだ。しかし、さらに、機械への不信感というのもあるらしい。つまり、物を買うなら、チャンと人と人が向き合って買いたいという感情だ。ガタンゴトンと機械から出される物を受け取るのでは無く、チャンと人の手から受け取りたいということなのだろう。
しかし、このような感情は、単一民族で、狭い国土に密集して住んでいる日本人こそ、強く持っていても良さそうに思える。しかし、実際は逆で、人と接することの無い自動販売機が大流行だ。そう言えば、最近、隣の人との間についたてを立てて、お互いが見えないようにしたラーメン屋が流行っているそうだ。周りに煩わされること無く食事ができるのが良いと言うことだ。
”おもてなし日本”といって、日本人は人に優しいと良く言われるが、本当は、あまり他人と関わりたくないと言う一面もあるのでは無いかと思ってしまう。

時代について行けない人

CDが手に入りづらくなっている。周りにCDショップが無い。レンタル店でもCDのコーナーはどんどん縮小している。第一レンタル店が急速に減っている。世の中はダウンロードに、急速に転換しているようだ。私は未だ、ダウンロードで曲を買ったことが無い(ちょっと恥ずかしいが)。
ダウンロードの曲は、明らかに、CDよりもファイルサイズが小さい。私は長い間、家で聴くときは、CDその物、または、CDからリッピングした音楽をそのままコンポで聴き、外出時に、軽くBGMで聴くときには、mp3等ファイルサイズの小さい形式に圧縮して、携帯プレーヤーで聞いてきた。そんな私としては、どうしてもダウンロードしたファイルサイズの小さい曲は、廉価版というイメージ、もっとはっきり言えば”まがい物”というイメージがあって、お金を出して買う気になれない。
そんな思いの人が多いせいなのかは分からないが、最近は、ハイレゾが流行だ。ハイレゾとは、CDよりも高音質な音楽と言うことなのだが、技術的には、可聴帯である20Khz以上を含む曲と言うことだ。つまり、本来、人に聞こえるはずの無い音まで含めた曲と言うことだ。う~ん。人には聞こえないはずの音を含めたからと言って、高音質になるのか?あまり納得がいかない。しかし、評論家さんたちは、確かに違うと言う。感想はそれぞれだが、皆さん、高音質になっていると言う。そこは、凡人である私には良く分からないのだが、少なくとも、家で聴くときでもミニコンポ、外で聴くときは、周りと雑音と混じりながらのiPOD(完全に周りの音を消すと危険だからね)の私には、無用の長物と思われる。
はっきり言ってしまえば、CDから直接落としたファイルと圧縮を掛けたmp3等のファイルでも、私の音楽環境では、音の差を聞き分けることはでき無いのではないかと思う。つまり、客観的に言えば、この環境で音楽を聴く限りではダウンロードの曲でも十分と言うことだ。
理屈ではそうなのだが、そこがイマイチ・・・・割り切れない。
はじめからダウンロードで聞くのが当たり前だった最近の若い人には、こんな悩みは無いのだろう。今や、定額制でストリーミングで聴くのが当たり前になりつつある時に、CDが手に入りづらいことを嘆いているのは、2段階も時代遅れに見えるだろう。こうして、時代について行けない人が生まれる。時代について行けない人とは、決して、新しい状況を理解できない人とは限らない。以前の状況にドップリとつかり、その時の先端を走るあまり、”その環境に愛着がありすぎて捨てきれない。”そんな人も多いのでは無いだろうか?

寒い、寒い

この冬は暖冬と言われてきたが、昨今、ようやく本格的な寒さになってきた。以前、“夏が嫌い”と書いたが、だからといって、冬が好きなわけでは無い。暑いよりは”まし”と言うことだけだ。
人は元来、その時々をそれほど考え抜いて過ごしているわけでは無い。冬になれば、夏に”暑い、暑い”と文句を言っていたことなど思い出しもせず、”寒い、寒い”と文句を言う。誰でも、最初に感じ取るのは、直近の事象だ。半年前のことなど考えを至らせる前に言葉は出てしまうし、自分の意見の一貫性など考える前に、その場で思いついた行動をとる。当たり前のことだし、決して悪いことだとはいえない。しかし、何でもかんでも、その場の衝動で行動していれば、社会生活は成り立たなくなるだろう。それを円滑にしているのが、”しつけ”だと、私は考えている。人とすれ違い際にチョコッとぶつかってしまった時に、即座に、”御免なさい”と言うか”なんだよー!”と言うか何も言わずに通りすぎるか。ぶつかってしまった瞬時には、自分のポリシーとか、生き方とかに考えを巡らす暇は無い。その時、即座に”御免なさい”とか”なんだよー!”とか言わせるのがしつけだと思う。世の中的には、”御免なさい”と言うのが良いしつけ、”なんだよー!”と言うのが悪いしつけ、何も言わずに通り過ぎるのがしつけがされていないということになっているのだろう。別に、ここで、何が良いしつけで何が悪いしつけなのかを議論するつもりは無い。ただ、しつけは、瞬時の、ほとんど考える暇の無い瞬間の行動に、一貫性を持たせるためにあると思う。そしてそれは、人間関係の第一印象に大きな役割を果たしていると思う。初対面の人に、下手に出るのか高圧的に出るのか、フレンドリーに接するのか敵対的に当たるのか。それを、大きく左右する物だと思う。
しつけには、親の影響が大きい。まだ、内面に何も構築されていない子供に、取りあえず、社会生活を円滑に過ごすために、一貫した外面を構築させるのが、親がするのがしつけだと思う。ところが、昨今、あまり叱らない親が多いといわれている。子供と友達のように接する親が多いといわれる。しつけイコール叱ることとはいわないが、内面が確立できていない子供には、ある程度強制することは必要だ。単純で、一貫性のある(例えば、人には迷惑を掛けないとかの)しつけが、取りあえず、回りの社会と円滑に過ごしていくために、必要だ。
小さい頃にしっかりしつけをされなかった子供は、大きくなってからも、瞬時の判断ができない。咄嗟の時に人とのコミュニケーションがとれない。一貫性が無いので、マニュアル通り”いらっしゃいませ、こんにちは”とは言えるが、隣人に”こんにちは”と挨拶できない。そして、ぶつかったときも、黙って通り過ぎることになる。
子供の頃、冬に”寒い、寒い”と言うと、”寒いだの、暑いだの、痛いだのと五月蠅いねぇ”と母に叱られた。取りあえず、寒い外に出たときには、ひょいと肩をすくめて、一呼吸置いてから”今日は涼しいなぁ”と言う癖が付いた。

墓参り

先日、母の一周忌に郷里に墓参りに出掛けた。あっという間に一年が過ぎてしまう。鈍感な私は、未だに、母の死がしっかりと理解できていない。父の時を考えると、体と心にしっかり染みつくまでには、まだまだ時間が掛かるように思う。とても大切なことは、ゆっくりと身になっていく物だ。
日曜日だったが、思ったよりは道路も空いており順調に里帰りはできた。しかし、さすがに途中で寄ったSAは人で溢れており、そこそこ広い施設に人が溢れかえっていた。遅い昼食をそこで取ったのだが、どのメニューもそこそこの値段なのに、沢山の人が絶え間なく注文している。そんな様子を見ていると、不景気と言いながら、結構日本人はお金を持っているのだなぁと感じる。まあ、経済発展の点から見れば、消費することは、悪いことでは無い。特に、サービス業に付いては、次々と台頭してくる新興国に追い上げられる日本としては、重要な産業だおる。
サービス業とは、お客さんに最も直接的に関係する産業だと思う。だから、顧客対応は、とても重要だ。”おもてなしの国、日本”としては、得意分野と思われるが、本当にそうだろうか。古くから、”顧客第一”というスローガンがあるが、言葉ほどに簡単では無い。すべての人間が善人であれば、問題ないのだが、そんなことは有り得ない、すると、そこには、必ず、顧客への奉仕と、自分個人の尊厳が葛藤する状況が生まれるからだ。顧客側が常に善人と限らないことより、最近、良くある”モンスタークレーマーの土下座強要事件”の様なことが起きる。このようなケースでの”顧客第一”な対応とはどのような物だろうか。なかなか難しい。
先日のツアーバスの交通事故の件で、社長が、土下座して、涙を流して謝罪していた。彼の涙は、誰へ向けた涙であったのだろう。自分たちの落ち度により、命を無くしてしまった顧客への涙だろうか。全く顧客のことなど考えず、ただひたすら、自分の会社の存続と成長のみを優先していた人が、突然、顧客のことを考えて涙を流すとは、とても思えない。あれは、単に、突然、とんでもない厄災に見舞われ、感情が制御できず、ただひたすら混乱のままに涙を流しているようにしか見えない。それは、以前の号泣県議会議員とよく似ているように見える。共通しているのは、”いい年をして、まるで子供”と言うことだ。そういう意味では、”モンスター何とか”も、相手のことなどお構いなく、自分の主張だけを押し通す、”子供のような大人”の集まりだ。
昨今、”子供のような大人”が増えているのだとすると、サービス産業のゆくえはかなり厳しい。

屈折する星屑の終焉

デビッド ボウイ氏が亡くなられた。自分のお金で買った最初のLPレコードが彼の”Ziggy Stardust”で、私が音楽を聞くことを趣味とするようになった、きっかけを与えてくれたのが彼であった。彼の音楽は、私の悶々とした十代と常に一緒にあり、その、幅の広さが、私に一歩ずつでも前へ進む勇気を与えてくれた。
今でもそうだが、私は、昔から、音楽を聞くことにのみ興味があり、アーティスト本人の姿形やアクティビティについては、余り興味が無かった。そのため、彼の奇抜なファッションや、その、型破りな行動などにはほとんど関心が無く、ただひたすらに、彼の曲のみを聴き続けてきた。しかし、それだけで、いや、それだからこそ、彼の曲の幅の広さ、ボーダレスな曲想に魅了され続けた来た。グラムロックの創始者として、華々しくデビューし、その華麗な容姿と怪鳥のような澄み切った声で全世界を魅了した後に、その後も、華麗なる変身を遂げながら、常に音楽界の第一線を走り続けた彼であったが、私には、ただひたすら、ロック、フォーク、ジャズ、ブルース、ダンスミュージックとあらゆるジャンルのポピュラーミュージックを、何の違和感も無く、彼の曲として歌い続ける、唯一無二のボーカリストでしかなかった。彼の曲は、ロックでもフォークでも無く”デビッド ボウイの曲”だった。
つい最近、新しいアルバムがリリースされた。彼のCDは、店頭で無くなることは無いので、いつも通り、のんびりとその機会を待っていた私は、まだ入手していない。しかし、これが彼の最期のアルバムであり、そして、今後、けっして新しい曲がリリースされることが無いと考えると、何となく、安易に手に入れることに戸惑いを感じる。
不出世のボーカリストのご冥福を心からお祈りします。

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